(FAQ14)
日本のとある湖のヒメマス釣り その1
アメリカネタばかり続いたので、日本の話を少し。

以前、ヒメマス釣りに親子2代に渡って取り組んでいる方とキャンプでご一緒させて貰った事があります。
その時に伺った伝聞を差し障りのない範囲で記述します。

「はじめてヒメマス釣りに行ったのは、戦後まもない1950年頃だっただろうか?
当時は国道すら舗装されていなくてガタガタで、湖岸に出るまでが大変な苦労だった。
オヤジに連れられてトラックの荷台に揺られて何時間もかけて釣り場に行った。
しかし魚はうじゃうじゃ居たねえ。

その頃は勿論みんな貧しくて船外機なんて持ってない。
でも湖によっては岡から浮きを付けた延べ竿でも入れ喰いだった。

朝夕にヒメマスが大群で岸に寄ってきて、湖岸は時合いになると大騒ぎさ。
氷もクーラーボックスもなかったから、大きな樽に放り込んで、塩漬けにしてギュウギュウ詰め込んだよ。
一回で何百本って釣れちゃうからね。家に帰ったら天日に干して保存食にしたよ。

当時は時期が時期だけにあんまりヒメマスが旨い魚とかそういう感覚ではなかったなあ。
ただ食料難を乗り切るためだけに獲りにいっていたという感じかな?」

とあるテン場で、宴会を楽しむ。オカズは双方で持ち寄り。
単独での遠征釣行はいつもの仲間で行くのとは違った新しい出会いが会って楽しい。
ある時は同好の釣り師、自分と少しジャンルの違った釣り師、はたまた地元のキャンパーの方、
ライダー、山屋、時にはその筋の人ともお知り合いになれるかも?

日本のとある湖のヒメマス釣り その2
「1960年代くらいかな?トーハツが国産の小型船外機を出したら
ぽつぽつ使い出す釣り人がでてきた。
湖上から見るとヒメマスが帯をなして泳いでるのが分かるくらいいた。

修学旅行で観覧船に乗った学生達が、ヒメマスの群の帯がとぎれなく続いているのを見て、
気持ち悪がってたくらいだよ。
この頃はまだ釣り方も仕掛けも完成された形がなくて、試行錯誤していた。

でも、ある夫婦がやたらめったら釣るのでみんな注目していた。
この夫婦、結構気性が荒くて、近づいておこぼれにあずかろうとか、仕掛けを盗み見ようとか、
接近してきた他船を大声でどなり散らして釣っていたよ。

とにかく釣れる仕掛けは絶対他人に見せない。
船上で取りつけて、岡に上がる前に仕舞いこんじゃう。
それを双眼鏡で覗いて真似した釣り人もいたな。」

写真は1970年代始めくらいの頃。
かなり釣り荒れ出してはいたがまだ岡から延べ竿でもそこそこは釣れていた年もあったという。

日本のとある湖のヒメマス釣り その3
「船外機が普及すると、もう今の形とあまり変わらなくなってきた。
旅館やホテルが名物料理として扱い、岡にあがったら仲買人に卸して小遣い稼ぎ出来た。
 
でもみんなで乱獲したから魚はどんどん減ったね。
魚の帯が見えるようなこともなくなり、船外機船が岸よりをワンワン走り回ったら、
魚が怯えて岸に近づかなくなっていったなあ。


しかしこの釣りほどアメリカの影響を受けた釣りはないねえ。
ドジャー、ペラしかり、エレキだって出始めの頃に真っ先に使われだしたのはこの釣りだし。

魚探?持ってるけどあんまり使わないねえ。
もう長いことやってるからだいたい様子は分かるし、あれ使うと群が散る気がしてね。」

この写真も1970年代はじめ頃のもの。
現在より短竿で、おそらく仕掛けの長さも短かったのかもしれない。
リールがフジ40を使用しているところは今と変わらない。

日本のとある湖のヒメマス釣り その4
「70年代を超えると魚がいなくなったねえ。
おまけにみんなで撒き餌しだしたせいか、湖水が荒れて、変な病気がはやって(
*注1)
奇形魚が釣れるようになってきた。
鰭がなかったり、背骨の曲がった魚とかね。
なにしろマグロのカマを腐らせたような撒き餌を使ってたから、
腐った餌を喰ったせいかもしれないね(
*注2)。

しばらく経ってあまりに酷いのである湖なんか数年間完全禁漁になって、
解禁されたけど撒き餌禁止、禁漁期間、場所も厳しくなった。

ボートは今まで6隻乗り継いだかな。
木船、アルミ、インフレータブル、FRPの和船。
それぞれ長所短所があるけど、この釣りはFRP和船が一番向いてるみたいだね。
インフレータブルは安全だけど、くるくる回ってだめだねえ。
アルミは軽いけど、荒れると怖いしね。

最近は仕掛けや釣り方を前みたいに隠さなくなったね。
魚も減ったし、歳とって枯れてきたのかな(笑)」

*注1:尾腐れ病(1974年)とミズカビ病(1980年代)
*注2:魚の減少は乱獲の他に道路建設による栄養塩流入不足・人工的な水位調節によるキャパ減の複合説がある。
撒き餌と病気の因果関係を科学的に証明するものは散見されなかった(病気の発生は過放流が原因という説もある)。
本稿はあくまで釣り人同士の酔談と思し召されたい。

シェルスプーンにヒットしたヒメマス 嬉しい外道

日本の角の歴史(古代~江戸)

FAQ5
の角の話と若干重複しますが、この項では角と呼ばれる日本オリジナルの擬似餌がどのような系譜をたどったのか?
についてもう少し詳しく記述したいと思います。


日本における獣角や骨を使用した擬似針の歴史は想像以上に古いようです。
長良信夫著「釣り針の話」(1961年刊)によれば、神奈川県三浦半島毘沙門B洞窟の遺跡から青銅製の釣り針が発見されていて、
頭部の返しの部分に麻紐が食い込んでいたことからこの部分に鳥の羽か何かを縛り付けたらしい、と述べられています。

この他に
軸が木と貝の接ぎ合わせで、針先を骨で作った物などがあり、広い意味での擬似餌が発掘されたとの事です。
これらは古墳時代(
300600年)のものです。

一方、文献で角について記した最も古いものとしては元禄五年(1692年刊)の「本朝食鑑」が一番古いとの指摘があります。
(参考文献:渋沢敬三著・日本釣漁技術史小考 他)

写真は青森県大間崎の根付きマグロ手釣り用の角。半分は鉛で重さ300g。
後端部分は牛角。中禅寺湖・丸沼草創期のメンバーだった赤星鉄馬氏の孫、
静雄氏(青森県漁連の指導員をしていた)が持ちよった物という。1960年代のものと推察される。

日本の角の歴史その2(江戸)
現代の角にも通じるような記述が見られるのは安永五年(
1776年)前後の執筆と推定される津村正恭著
「譚海」の中の以下の文章です。
カッコ内に原文を引用します。


「鰹を釣るのには餌を用いず牛の角にて釣る也。生たる牛の角を刃物にて段々に削り去れば、
 しんの所鰹節のしんの色の如く、美しく透き通る様になる。
 其香ばしき匂い、誠に喰て見たき程也。その角の芯の先へ釣り針を仕込、針の際へふぐの皮を付る事也。
 其角を縄に付け海に投ずれば鰹此角の匂を慕いてそのまま喰付ば釣り針先にかかりて離る事ならず」


ここに描かれているのは現代の和角ともうほとんど変わりがないと言えます。
ただ、「其香ばしき匂い」というのはあまり合点が行きません。

削った人なら分かると思いますが、その臭いは結構きついものがあります。
皮加工か獣臭のような臭い、濡れるとさらにきつくなるこの臭いは、
あるいは魚にとってはgood smellなのかもしれませんが。

その他、ブリ角としてカモシカの角にフグ皮を用いていたこと(寛政元年 ひろめひかり)なども
文献として残っているようです。

海のビックゲームの擬似餌の原型ともいえる、職漁カジキ用バケ。
ヘッドは鯨骨で、羽根で針を覆う。60年代と思われる。

日本の角の歴史その3(明治~大正・近代)
近代の角の記録としては、
FAQ5で既出の農商務省水産局編「日本水産捕採誌」(大正元年・以下捕採誌と略す)が最もよく
まとめられた資料のようです。
日本全国の多様な角の形態、材料について図解入りで説明されています。
当時の日本では、材料については以下のようなものが使われていたとあります。以下カッコ内に引用します。


「鰹、ブリ、サワラなどに用いる擬似針は、牛角、羚羊角、子牛角、鹿角、犀角、馬蹄、鯨骨、鯨ひげ、鉄樹(海松)、
 カジキの鼻尖、錫などで躯幹を作り、下端に孔をあけて針をあけてはめ込み、その周辺を
(針の根元を)魚皮または鳥羽で包み、
 イカの形に擬して
魚を誘う。」
この他に竹、アワビ、硝子も用いられていたようです。

続いて捕採誌ではカツオ釣りに牛角を用いるものが多いとして、牛角の素材としての良否、価格について次のように述べています。
以下カッコ内は捕採誌より引用。


「牛角は最良品を選ぶ。とくに色がうすい茶褐色のを良品とするがそんなのは値段も安くない。
 上等品は100本につき5~6円、下等品で2~3円する(註:明治末のこと)。


 ~品定めはむずかしいもので、老練な漁師でも、良品と思った角に魚が食わないこともあり、不良品と思った角も、
 実際使ってみると魚がよく食うこともある。ただ、角の中で金目と称するのは、水中にて角が金色に光るもので、
 笹目というのは水中で角の筋目が竹葉色に光るもので、この二種はカツオがよく食うとされている。

(上)捕採誌より、全国の角の図解より一部抜粋(明治末)。
(下)牛角をつかったイカ角。スマルの原型。
浅見作 電動工具のない時代、ロクロを回して作ったという(1950年代)。

Go Shop!


Index